【史跡】周山城跡①🏯

【史跡】周山城跡①🏯

かなり以前の写真です。
お仕事で近くに寄ったので、ついでに登山してきました😆。
個人的には2回目の登城でしたので登城口とかもわかってますし安心。
約3時間程山中に居ましたが誰とも会わなかったです😭。
かなり上級者向けの山城です。
装備はしっかりと登ってくださいね。

周山城跡とは。
「周山城(しゅうざんじょう)は、京都府京都市右京区京北周山町(かつての丹波国桑田郡)にあった日本の城。明智光秀の築城で、明智光忠が入ったとされる。」

「天正7年丹波を平定し近江滋賀郡に加え丹波一国を与えられた光秀は、丹波亀山城に続いて若狭から京都への交通の要衝であり、宇津頼重により禁裏領への違乱が長く行われていた東丹波統治の拠点として周山城を築城した。築城年は根拠不明であるが地元の地誌『丹波誌』によると天正8年とする。城主には明智光忠が入ったとされる。天正9年8月には光秀が津田宗及を招き月見をした記録が『津田宗及茶湯日記』に記されており、城下の慈眼寺には善政を敷いたとの伝えと共に光秀の木像が遺っている。しかし築城からわずか1年後の天正10年、光秀は本能寺の変により信長を討つも、まもなく豊臣秀吉に討たれ、山崎の戦いの功により加藤光泰が入城する事となる。その後、天正12年に秀吉が周山城を訪れた記録が『兼見卿記』に記されているもののその後の記録はなく、破城されたものと思われるが廃城年について正確にはわかっていない。」

「周山という地名について、光秀が自らを周の武王になぞらえて、周山と命名し、それは、信長に代わって天下人になりたいという願望を示したものだとされる。それが光秀謀反の要因の一つとされることもあるが、周山という地名はそれ以前からあるので誤りである。」
(Wikipediaより引用)

プライベートで大なり小なり約700城程周っておりますが、私の中ではかなり順位の高い城跡です。
というのも、明智光秀の時代からほぼ変わらずの状態での遺構が残っており、歴史を感じられる場所だからです。破却された石垣の跡等が生々しいし、破却前はどんな石垣だったのかな?と考えるだけでご飯が何杯も食べれるし、一日中佇んでおける、そんな場所です(私だけか、、、)。
山城に慣れている方にはかなりオススメの城跡です。
是非どうぞ🚶。

私の大好きな風景、本丸跡手前の景観。圧巻の一言。
登城口。その横にある説明板。
大手門跡。
こんな登りが延々と続きます。
少し登るだけでもう景観が良い。
オール登りの「300m」はなかなかキツイですよ。
枡形虎口の遺構。「枡形」「虎口」に関しては当ブログの熱心な読者諸氏ならこの単語の意味はお分かりかと思いますのでここでの説明は割愛させて頂きます。

次回に続きます👍。

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